不妊治療の保険適用拡大が2022年の4月からはじまりました。そして、その後の不妊治療にかかわる医師の変化、そして不妊治療全体の新しい動きが、だんだんと把握できるようになってきました。今回の大きな変更点は、それまで自由診療であった人工授精、体外受精、顕微受精などが保険適用となったことです。これにより不妊治療は、タイミング法から体外受精を始めとする高度生殖医療までが、本人負担額が3割の保険適用で行えることになり、身近なものとなりました。
人工授精の保険適用について
まず、人工授精の費用についてですが、保険適用により5460円の負担で人工授精が受けられることになりました。
東京の場合人工授精の平均的な料金が、30,000円近くでしたから、5分の1の料金で、人工授精が受けられることになったわけです。しかも人工授精は体外受精と違って、回数の制限も、年齢制限もありません。
患者さんの立場からすればとても歓迎すべきでしょうが、私は心配します。というのは、これでは医療機関の人工授精での収入が、1万8200円です。本当にこの料金で、人工授精を何回も行ってもらえるのでしょうか。このように人工授精が低額な場合、人工授精をスルーして、体外受精にエントリーさせてしまう医療機関が、増えてくるのではないかと思っていたのですが、実際私の予想通りになりました。
HPのトップに、「初診の方は体外受精希望者のみとさせていただきます」などと記載されている不妊クリニックも増えてきており、驚いています。
高度生殖医療の保険診療
一方の体外受精を始めとする高度生殖医療は、保険適用に関して年齢制限が細かく設定されました。すなわち、40歳未満は移植6回まで、40歳〜42歳までが移植3回までが保険適用となり、43歳以上は適用外となります。
これにより、43歳未満の女性は、3割負担で保険適用となったわけです。これまで高額医療として手の届かなかった人たちに不妊に悩むカップル対して、「福音」となった事は間違いありません。
しかしながら、新たなる問題も出てきたようです。保険適用は、すべての手技に対して細かく点数が設定されており、胚移植に至った場合でも、トータルの医療費は、自由診療のみの時代と比べて低いものになっています。したがって、体外受精を行う医師は、この保険診療を嫌い、これまで通り自由診療で高度生殖医療を行う可能性が考えられると実施前より指摘されていました。
東京は体外受精のレッドオーシャン
私は東京という場所で不妊治療を定点観測しています。月をおうごとに、体外受精を行う医療機関が増えています。東京は、体外受精医療機関のレッドオーシャンと化しています。
こうした環境下では、妊活に悩むカップルが、軽い気持ちで不妊治療のドアをノックしても、あっという間に体外受精に誘導されるケースが後をたちません。
体外受精医療機関の3つのグループ
体外受精が保険適用になったことにより、不妊治療の医療機関は、
3つのグループが発生しました。
1つ目のグループは厚生労働省の制度に忠実に従って、
保険適用のもとで体外受精を行う医療機関です。
2つ目のグループは、保険適用下の体外受精では、
検査、治療に制約が大きいので保険適用の治療は行わず、
これまで通り自由診療で行うグループです。
そして3つ目は、ホームページなどに健康保険適用のメッセージを載せておきながら、受診してみると、自由診療に誘導されてしまうグループです。
私のような医師であれば、その医療機関の内実というものも把握することができますが、医療の素人である患者さんは、その実態を実感しかできないため、イニシアチブをとって決定していくことは難しいと思います。そのため医師の言うままに治療が進んでしまう場合が多いと思います。レストランやラーメン屋などの飲食店であれば食べ歩きで自分の好みのお店を選べますが、医療機関ではこのような比較は難しいでしょう。
43歳以上の女性たちの悩みは深い
さらなる問題点は、保険適用外となる43歳以上の女性たちです。
この人たちは最初から自由診療なわけですから、医療機関が自由に料金を設定することができます。
日本産科婦人科学会がホームページで公表しているデータによれば、40歳の女性が体外受精にエントリーして、妊娠し、それが継続して分娩に至る「生産率」は10%です。42歳では5%となります。43歳以上では、さらに低下していきます。ですから、43歳以上の女性が体外受精を行っても、赤ちゃんを抱いて帰れる確率はとても低いのです。
要するに、妊娠が難しいわけですから、体外受精を繰り返すことになり、高額な金額を出費してしまうことになりやすいのです。
金銭面以外の問題点として体外受精という医療は、時間的、精神的負担が、とても大きいのです。現在、体外受精を受けている人のピークは、40歳の女性です。仕事を持つ女性が多い現代社会で、40歳と言えば、職場で責任の重い立場にあり、仕事にやりがいを感じている世代です。こうした労働生産性の高い女性たちから時間、エネルギーを奪うことになり、日本社会全体から見ても有益なこととは思えません。
また、医療を受けるカップルが、自分たちの考え、イニシアチブを持っていないと、医師の言うままに体外受精に誘導されてしまうことにもなりかねません。
不妊治療を受ける際に重要なことは、「消費者」という自覚であり、妊活リテラシーを持つことが大切な時代なのです。
体外受精依存という問題
体外受精は多くの場合、刺激法採卵が行われます。刺激法採卵とは女性が何回もhMGという注射を行い、卵巣の中で覚醒させる卵を増やします。そして、日を決めて採卵し、体外受精、顕微受精などを行います。例えば、8個の卵が取れて、5個の卵が無事受精して、分割も順調に進み、4個の受精卵が凍結できたとします。そしてその受精卵を移植したところ、運よく1回目で妊娠が成立し、無事出産しました。彼女にはまだ3個の凍結卵が残っています。
彼女がふたり目の子どもを希望した場合、どのようなアクションを取るでしょうか? 例えば彼女が30代前半と比較的年齢が若かった場合、再度体外受精を行わなくても、自然妊娠の可能性があるかもしれません。また、多くの女性は、一度妊娠、出産をすると、ふたり目の妊娠は、比較的妊娠がしやすいといいます。しかし、凍結されている余剰卵を解凍して、子宮に戻せば、妊娠も期待できるわけです。こうした場合、多くの女性は、再び医療機関に出向き移植を受けようとします。
体外受精で妊娠した女性は、たとえ凍結卵がなくても、ふたり目を希望した場合、「体外受精でしか妊娠できない」という思い込みが生じてしまうのです。すなわち、体外受精依存体質となってしまうのです。ここで、「ひとり目は体外受精だったけれども、ふたり目は自然妊娠を期待しよう」という発想は、むずかしいかもしれませんが、こうしたチャレンジがとても大切だと思います。
私がこうしたことを強く思うのは、最近「不妊ルーム」の相談で、不妊に関する大した問題がないと思われる方で、体外受精を経験してうまくいかないという20代女性の相談が急増しているのです。そうした女性たちに、自然妊娠の可能性があることを説明し、甲状腺ホルモンを補填し、亜鉛と銅のバランスを整える、ビタミンDサプリメントを勧めたりなどといった簡単なことで、妊娠に至るカップルが少なくないのです。体外受精はあくまで、妊活のオプションという認識が、私はとても大切だと思います。
最先端の検査と自由診療
保険適用範囲について最近始まったPGT-A(受精卵の染色体検査)などの最先端の検査は含まれませんが、必要十分な不妊治療が保険適用範囲内で行えると思います。
料理に例えて考えてみましょう。
キャビア、フォアグラ、松茸など、お金に糸目をつけず、高級食材を自由に使って料理を作ってよいというのであれば、多くの料理人はおいしい料理を作ることができるでしょう。しかし家庭の冷蔵庫の中の食材を使って、おいしい料理を作るのがプロの料理人ではないでしょうか。
不妊診療も同じです。自由診療における体外受精などの高度生殖医療は、医療機関によって独自の治療を行っていました。非常に高額な検査、治療も多く、中には私が首をかしげるような医療も含まれています。
私は厚生労働省が、ホームページに掲載している健康保険適用での体外受精の検査・治療内容を詳しく見てみました。厚生労働省が認可した検査・治療は、すべて妥当なものです。たとえ制約があるにせよ、こうした決められた医療で結果を出すというのが、体外受精においても、プロの仕事だと私は思うのです。ですからこれからは医療機関の実力が本当に試される時代になったといえます。
その一方で、保険適用の体外受精は一切実施しないと、明言している医療機関もあります。私は強い違和感を持ってしまいます。なぜなら1回あたりの体外受精が、100万円前後と高額になってしまうからです。保険適用の場合は、10万円+αでおこなえるわけですからまさに桁違いです。
女性の高度生殖医療の適用年齢が43未満というのはすこし酷だと思います。まだ始まったばかりの制度ですから、これからどう推移していくのか、私は注意深く見守っていきたいと思います。
保険診療とは、病気の治療に対して、国が税金で負担するわけです。したがって、きちんとした診断基準、検査内容、治療ステップなど、保険適用拡大にあたって、しっかりと制度設計してほしいと願います。今回の保険適用拡大をきっかけに、不妊治療、とりわけ体外受精などの高度生殖医療が健全なものになってほしいと願わずにはいられません。